なぜだろう。
いざ山に行こうと決めた途端、いてもたってもいられない状態になって、期待と不安、焦りにも似た胸の高鳴りを抑えきれなくなる。
それはさながら恋煩いにも似た症状だ。一部の人にとって山は突如としてそういう対象になる。
目次
下準備だってワクワクだ
「山をやろう」と思う人の大半は用意周到で用心深い。
よって、事前に地図を広げ、ギアレビューを読み漁って装備を厳選し、さらにその手は自然と関連書籍やマンガにも及んでいくだろう。
多様化する現代。そうしたニーズに応えるマンガも数多く存在しているのは事実だが、果たしてそれらは登山の楽しみを疑似体験できるものなのだろうか。
面白い!・・・けど?
数ある作品の中でも、もはや代名詞と言ってもよい、石塚真一 作「岳」がある。
山岳救助を題材として描かれるヒューマンドラマで、登山に伴うリスクが学べ、多くの金言を見つける事のできる素晴らしい作品だ。
しいて言うならば、北アルプスが舞台であるため、雪山やアイスクライミングなど過酷な環境下で起こる出来事がメインとなっており、
初心者にとってはスキルアップしてようやく到達できうる世界であるという点で、最初からリアリティを持って読むことは難しい。
ただし、これは他の良著と言えるものであっても、やはり厳しい環境や自らの限界に挑むからこそドラマが生まれるという構造自体は変わらないことから、
山に関係しているというだけで、極端に言えば他のジャンルのマンガでも補完できるという意地悪だって言えてしまう。
単に専門用語やテクニックを少しでも吸収したいという欲求を満たした先に、思わぬ代償を払う羽目になることだってあるかも知れないのだ。
マンガが描けない要素
そもそもマンガがマンガとして成立するためのダイナミズムは、登攀行為とあまりにもかけ離れている。
地味で小さな一歩を積み重ねて頂点に到達する行為、それもできる限り計画通りに遂行できることが望ましい。そしてさらに注意深く下山する。
もちろん、稜線からの展望であるとか、天候に恵まれれば日の入や日の出、道中の高山植物やうねるように根をはる原生林など、
いわゆる絵になる光景はあるにしても、それはそこまでの耐え忍ぶような長い長い体験と切り離すことはできないだろう。
この、道中のあまりにも長い「間(ま)」をマンガというフォーマットは許さない。
構造上、他の表現と比べ最も展開していく描画が必要であり、また連載という形でコマ切れに進行するスタイルであることもそれを求めるからだ。
ここで「過程を楽しまなきゃ」などという陳腐な押し付けをするつもりは一切ない。
問題になるのは、マンガによって刷り込まれた進行速度が、実際の行程を余計に長く感じさせる、ということだ。
それによって集中力の低下や焦りを招き、思わぬミスを犯してしまうことも起こりうるし、さらにはその冗長で退屈に感じた記憶によって、下山後また登山に向かうモチベーションをも削がれてしまうことだって考えられるのだ。
わかっちゃいるけど
かく言う私もこの「登山萎え」の経験者だ。
私の場合、元来の頭でっかちタイプであることも手伝って、あらゆる情報を事前に手に入れることが正義と信じていた。
しかし知らぬ間に身についてしまった性急なテンポ感と、それが叶わぬ故に膨らんだ物足りなさを埋めるために、強行スケジュールで「間」を縮め、レベルに見合わないバリエーションルートを攻めて・・・。
不幸中の幸いで大きな事故にこそ遭わなかったが、そうした先には必ず「山はもういい」って気持ちが待っている。まったく需給がマッチしていないからだ。
頂上からの展望を想像する
こうして他人の失敗談を見れば、間違いを見つけるのは簡単だろう。
もちろん全ての元凶がマンガにあると言うつもりはないし、他にも同様のリスクはどこに潜んでいるかわからない。
ただ一つだけ言えることがあるとすれば、矢印の方向が逆なのだ。
つまり、マンガを通して山に思いを馳せるのではなく、登山の時間軸をもってマンガ(その他なんでも)を読むのだ。
ときに苦行とも思える瞬間をはらんだ経験を何度も重ねるにつれて慣れることで、モノを見る角度が少し変えられる。
成果主義の渦に巻き込まれていながらも、流れに身を任せている自分を俯瞰するイメージが持てる。
そうした「向こう側」から眺めてみる、眺められるようになることこそが登山の一つの収穫であり、醍醐味ではないだろうか。
お後がよろしいのか
長々と理屈っぽい仮説にお付き合いさせてしまった。
この駄文に最後まで耐えられるあなたにとっては、そもそもまったく必要のないおせっかいだったかも知れない。
(どちらかと言えば、マンガよりも文章を延々と追うことの方が登攀行為には近そうだ。長編の海外文学なんかは、まさに迷い込んで何がなんだかわからなくなった挙句、急に視界が拓ける感じがあったり、登山と共通する体験ができることがある)
言うまでもなく、登山マンガは最高に楽しめるエンターテインメントだから、さながら装備を整えるがごとく、ルートを思案するがごとく、自分に合うものを見つけて楽しんで欲しいと思う。
また、上述した登山のような読書体験にも興味があれば、ノーベル文学賞作家 ガルシア=マルケスあたりから入ってみるのも面白いかも知れない。